ある日、SNSのタイムラインを眺めていた私は、目を疑うようなニュースに出会いました。
北九州市のファストフード店で、中学生2人が刃物で襲われるという痛ましい事件。女子生徒は命を落とし、男子生徒も重傷を負いました。そして事件から数ヶ月後、加害者とされる男性に対して「心神喪失の可能性がある」との報道が出たのです。
「人を殺しても無罪になるの?」
「これって本当に正しいのか?」
SNSやコメント欄には、そんな言葉が並びました。行為の重大さに比して、あまりにあっけない司法の判断に、多くの人が違和感を覚えています。
しかし「心神喪失」という概念は、単なる逃げ道ではありません。精神鑑定の結果、本人が善悪の判断すらできない状態だったと認定されれば、刑法上「罰することができない」──それが日本の法体系です。
この記事では、北九州の事件を通して、心神喪失と刑事責任の関係を掘り下げます。
「なぜ罪に問えないのか」
「加害者ばかり守られるのでは?」
そんな疑問に、法律・医療・そして世間の声という三つの視点から迫ります。
この記事でわかること
・「心神喪失」とは何か?法律・医療の定義と実態
・精神鑑定が司法判断に与える影響とは
・北九州事件に対する世間のリアルな反応
・責任能力と量刑の再検討に向けた課題
※この記事はSNS情報を中心に書かれていますが、意見や感じ方は人それぞれです。推測の域を出ず、異なる意見や見解があることも理解しておりますので、どうかご了承ください。本記事を通じて、少しでも多くの方に伝えられれば幸いです。
参照:ヤフーニュース
心神喪失とは何か?──法律と医療から見るその定義
嘘でしょ。 もうこの判断基準やめようよ。何度も野放しにされ何度アヤめても不起訴もありになるの? 嘘でしょ。 北九州市マクドナルド中学生2人殺傷事件の犯人の男「心神喪失」で不起訴。無罪の可能性も。
https://x.com/penpe_net_/status/1912395156965466193
今回の事件で話題となった「心神喪失」という言葉。報道で頻繁に目にするものの、実際のところ、これがどんな状態を指すのかを正確に理解している人は多くありません。
刑法第39条では、「心神喪失者の行為は、これを罰しない」と定められています。つまり、たとえ殺人という重大な行為であっても、その人が心神喪失の状態だったと判断されれば、刑事責任は問われないということです。
では、その「心神喪失」とは何なのか。法律の観点では、「善悪の判断ができない」または「その判断に従って行動できない」精神状態を指すとされます。しかし、それは単にパニックに陥っていたとか、感情的だったというだけでは成立しません。判断の基準は医学的な鑑定、すなわち精神鑑定(鑑定留置)に基づいて行われます。
この鑑定では、事件当時の精神状態を、複数の専門医が時間をかけて分析します。検察や裁判所がそれをもとに「責任能力があったかどうか」を判断します。もし心神喪失が認められれば、起訴されずに終わる可能性もあります。
ここで一つの誤解が生まれやすいのですが、「心神喪失=錯乱状態」ではないという点も重要です。精神科医によれば、たとえば妄想や幻覚といった症状が影響して、本人にとっては現実が歪んで見えていた場合、それがどんなに“理路整然”として見えても、「心神喪失」に該当する可能性があります。
つまり、「計画性がある」「逃走していた」などの行動だけでは、責任能力の有無は決められないのです。
✅ 心神喪失とは、善悪の判断ができない、またはそれに従えない精神状態を指す
✅ 判断は精神鑑定を通して、時間をかけて慎重に行われる
✅ 外見上の行動の“正常さ”は、責任能力の有無とは直結しない
世間の反応:「なぜ無罪になるのか」に込められた怒り
北九州市で起きた中学生殺傷事件において、「心神喪失の可能性がある」という報道がなされた直後、SNS上には大きな波紋が広がりました。多くの人々が抱いたのは、加害者が罪に問われないかもしれないという不安、そして被害者遺族の想いが置き去りにされてしまうのではないかという強い怒りでした。
「人を殺しておいて、無罪になるなんておかしい」
「自分の子どもが被害者だったら、到底受け入れられない」
「逃げるようにその場から立ち去ったという行動が“正常”にしか見えない」
このような声が広がった背景には、「行動としての重大さ」と「責任能力の有無」との間にあるギャップがあると考えられます。人を刺し、その場を離れたという一連の行動には、一般的には“理解可能な意思”があると見なされがちです。しかし法律上は、その行為の背後にある“判断能力”が焦点になります。つまり、「やったこと」ではなく、「その時、何をどう感じ、認識していたのか」が問われているのです。
また、世間の反応からは、被害者や遺族のケアが不十分であることに対する不満も浮かび上がります。加害者が心神喪失と認定され、刑罰を免れる場合、多くは医療観察法のもとで治療に移行します。一方で、遺族には精神的支援も経済的補償もほとんど提供されない現状があるのです。
さらに、「このままでは“やったもん勝ち”になってしまうのではないか」という声も見受けられました。つまり、心神喪失という診断が、結果として加害者の“免罪符”になり、再発や模倣犯を助長するのではないかという危機感です。
こうした声が集まること自体、社会が「納得できる司法」を求めている証でもあります。
✅ SNS上では、「心神喪失による無罪」に強い違和感や怒りの声が目立つ
✅ 行為の重大さと責任能力の評価にギャップがあると感じる人が多い
✅ 被害者・遺族への救済やケアが十分に制度化されていないことも不満の背景にある
【1】「心神喪失で無罪」に対する強い疑問と怒りの声
- 「罪は事実であり、責任を逃れてはいけない」
- 「殺人をしたという事実は変わらないのに、無罪になるのは納得できない」
- 「精神障害を理由に無罪では被害者が浮かばれない」
- 「どれだけ精神に異常があろうと、結果に責任を取るべき」
- 「責任能力という概念そのものへの疑問」
- 「行動に一貫性があるのに“心神喪失”はおかしい」
- 「逃走時に車線変更やウィンカーを使っている。正常な判断能力はあったはず」
✅ 被害者側の視点に立った意見が圧倒的多数
✅ 「やったもん勝ち」「逃げ得」という不公平感が広がっている
【2】「制度・法律への不信感」
- 「刑法39条そのものを見直すべきでは?」
- 「この条文もう廃止にしてほしい」
- 「“疑わしきは被告人の利益”という原則が、真の正義とは限らない」
- 「司法は加害者に甘く、被害者に厳しい」
- 「遺族は一生苦しむのに、加害者は不起訴?法制度が逆転している」
- 「精神病だからと罪を逃れる社会は、被害者側にとっては地獄」
✅ 加害者中心に組み立てられているように見える司法制度に不信感
✅ 「被害者軽視」への根本的な疑問が根強い
【3】「社会・行政の対応への要求」
- 「事件前に対応できなかったのか?」
- 「この容疑者、もっと早く医療につなげられなかったのか?」
- 「危険な兆候があったのに、見過ごされていた可能性がある」
- 「危険な人は事前に隔離・管理すべきでは?」
- 「事件が起きる前に全員検査して、危ない人は保護しておいてくれ」
- 「心神喪失が理由になるなら、全員保安処分してほしい」
✅ 事前防止の観点から「未然に防ぐ仕組み」を求める声
✅ 社会福祉・医療との連携の不足も課題として認識されている
【4】「鑑定や制度運用の不透明さへの懸念」
- 「精神鑑定の信頼性や透明性に疑問」
- 「なぜ2度も鑑定をする必要があるのか?」
- 「鑑定結果がリークされているのはおかしい」
- 「恣意的に無罪を得る手段として使われているのでは?」
- 「“頭おかしいふり”すれば無罪になれるのではと感じる」
- 「一部の弁護士が“逃げ道”として悪用していないか不安」
✅ 鑑定・運用の不透明さが「不信」や「陰謀論」を生む土壌に
✅ 公正で中立的な鑑定と、その適切な公表が求められている
【5】「遺族や被害者への配慮不足」
- 「被害者遺族の感情が置き去り」
- 「これでどうやって親は納得しろというのか?」
- 「こんな結果では私刑や報復感情を煽るだけだ」
- 「感情的な正義を否定しすぎていないか」
- 「もし遺族が報復したとしても、同情してしまうかもしれない」
- 「制度が感情と乖離している。“冷たい正義”になっている」
✅ 「心神喪失=無罪」は法的には筋が通っても、感情的には納得されない
✅ 被害者の苦しみや怒りに向き合う姿勢を司法制度に求める声が多数
総まとめ:世間の反応(簡易ポイント)
✅ 「やった事実」重視で、責任を逃れさせるなという声が大多数
✅ 法制度(刑法39条)への不信と見直しを求める声が拡大
✅ 心神喪失の判断基準と鑑定の不透明さに懸念
✅ 早期支援・隔離など、医療と社会福祉の連携不足も批判対象
✅ 被害者・遺族に寄り添った制度設計を求める声が圧倒的
加害者を守るだけでいいのか?制度の限界と改善の議論
心神喪失と判断された場合、刑事責任を問うことはできず、起訴を免れる可能性があります。これは法律上の正当な処理であり、個人の人権を守るための制度でもあります。しかし、その裏で、取り残されているのが被害者やその遺族の存在です。
多くの市民が感じているのは、「加害者ばかりが守られて、被害者の感情が顧みられていないのではないか」という不公平感です。たとえば、心神喪失と認定された加害者は、刑罰ではなく「医療観察法」に基づく治療措置に移行します。これにより社会的な制裁が見えにくくなり、「処罰されていない」と受け取られてしまうのです。
もちろん、医療的なアプローチは再発防止にとって重要です。しかし、その一方で「被害者の苦しみに見合う正義」が制度の中に組み込まれていないことも事実です。たとえば遺族へのカウンセリング、経済的補償、あるいは公的な説明責任など、やるべきことはまだまだ残されています。
また、精神鑑定の不透明さも課題とされています。専門家による鑑定は非常に重要なものですが、その内容が市民にとっては「見えない判断材料」であるがゆえに、不信感を生み出しやすいのです。「誰が、どのように判断したのか」という点についての透明性や説明責任も、今後求められる視点でしょう。
さらに、事件が起きる前の段階で医療・福祉につなげる支援体制があれば、そもそも悲劇は防げたかもしれません。加害者が心神喪失の状態にあるとすれば、それは「社会が見逃したSOS」だった可能性もあるのです。
✅ 医療的支援の必要性はあるが、被害者支援の欠如が制度の穴となっている
✅ 精神鑑定の透明性が不足しており、市民の理解を得にくい構造
✅ 事件を未然に防ぐための医療・福祉との連携体制も不十分なまま
さいごに──誰もが納得できる司法のかたちとは
「心神喪失で無罪」と聞いたとき、多くの人が覚える違和感。それは、単に法制度の知識がないからではなく、「人として当たり前の感情」として自然に湧き上がるものなのかもしれません。
加害者の精神状態がどうであれ、「被害者が亡くなった」という事実は変わりません。そしてその遺族は、取り返しのつかない喪失と共に生きていかなければならないのです。にもかかわらず、加害者に対して「罪を問えない」とされてしまう社会。そこに、正義の不在を感じる人が多くいるのも当然のことです。
とはいえ、法律は感情だけで動かすことができません。刑法39条が定めるように、「疑わしきは被告人の利益に」という原則もまた、人権を守るために必要不可欠な視点です。そのバランスがあまりにも偏っていると感じられる今、私たちが求めるのは、「被害者にも加害者にも誠実であろうとする司法の姿勢」ではないでしょうか。
制度の見直しが必要かもしれません。精神鑑定の透明性を高め、医療観察制度と連携した再発防止策を強化することも大切です。さらに、遺族への支援を拡充し、「なぜ罰せられないのか」を丁寧に説明できる社会的土壌も必要でしょう。
この事件が投げかけた問いは、決して一過性のものではありません。誰かがまた同じ境遇に置かれる前に、私たちはこの問題から目を背けず、「誰もが納得できる司法のかたち」を模索し続けるべきなのだと思います。
✅ 感情と法律の両立が求められる現代社会
✅ 被害者支援や説明責任の強化が制度への信頼を高める鍵
✅ 社会全体で納得を共有できる司法制度の在り方を考える必要がある